【ヒクソン☆高田インタビュー前編】風俗に4500万円も使ったバカ一代
『風俗に4500万円使った史上最強の風俗バカ』(彩図社)の著者、カリスマ風俗客のヒクソン☆高田さんに突撃インタビュー。前・中・後編の3回に分けてお届けします。出版の経緯、懐かしの風俗、手コキLOVEなどについて。今回は第1回目となる前編です。
ヒクソン☆高田が風俗本を出版した理由
▲著書を手にする高田さん。印税の使い道はいうまでもあるまい
インタビューを行った私、シン上田は90年代半ばから15年近く風俗取材を中心に活動してきたライター。高田さんのお名前は当時から存じ上げていましたが、意外にも今回が初対面でした。
――昨年末に初めての著書を発売されました。どのようなきっかけで?
「本格的に風俗に行き出してから25年経ちまして、そろそろ自分の半生を書こうかなと思いまして」
――なんと25年。高田さんは今年で50歳の大台を迎えるわけですから、人生の半分を風俗遊びに費やしてきたことになりますね。
「彩図社に売り込みに行ったんです。2年かかりましたけど。それで去年の12月に出たわけです」
――2年ですか。結構時間かかりましたね。
「出版の企画が会議で通るまで1年。1年待って、やっと連絡がきたんです。そこから書き始めました。本当は2018年頃に出るはずだったけど、昨年はコロナもあったせいで伸びてしまいました」
――彩図社で出そうとしたのは、編集者に知り合いがいたとか?
「はい、そうです。それもありましたが、彩図社ってわけわかんない本を出しているじゃないですか」
――あぁ、はいはい(笑)。
「一番出しやすそうな感じがして」
――風俗とかアウトローなんかのヤバい本、マニアックなプロレスの本などいろいろ出している出版社ですからね。じゃあ、最初から彩図社しか選択肢がなかったと。
「もしくは鉄人社ですかね」
――集英社とか講談社とかは最初から……。
「ムリです、ムリです(笑)。彩図社のみで」
――正解でしたね。
「この本を出したお陰で取材、結構来ているんですよ。『特選小説』とか『エキサイティングマックス』とか」
――執筆はご自身で?
「はい」
――高田さんは本職の風俗ライターではないんですよね?
「客です、客です。ずっとお客さんです」
歌舞伎町にあったのぞき部屋に週7回!!
▲のぞき部屋『ピンキー』があった歌舞伎町区役所裏が高田さんのいわば本籍!?
――本職は和菓子職人で、新宿の老舗店に勤務していると伺っています。
「高校卒業してすぐに今の仕事に就きました」
――普通のサラリーマンとは働き方は当然異なりますよね?
「勤務時間は朝の5時から始まって、15時か16時に終わります。勤続30年です」
――じゃあ、職場ではもうベテランでは。
「それが違うんです。僕が一番若くて下なんです。お陰でバレないんですよね」
――高田さんは雑誌やネットで顔出していますけど。
「みんなガラケーだし、バレたことはありません」
――カリスマ風俗客だとバレたところで……。
「悪いことしているわけじゃないですから」
――勤務後は歌舞伎町へ直行ですか?
「若い頃は、区役所通り裏に『ピンキー』ってのぞき部屋があって、週5日行ってました。
――昭和の時代、テレ朝の深夜番組『トゥナイト』で山本晋也監督が紹介していたのを覚えています。
「そうです。店内に山本晋也の写真が貼ってありましたよ」
――凄いですねぇ。じゃあ、高田さんにとっての風俗デビューは、のぞき部屋なんですね。
「はい、1993年の22歳のときです」
――どれぐらいの頻度で?
「平均週3回。最高で週7回でした」
――ほとんどビョーキですねぇ!!
念のために、のぞき部屋について説明します。今の40歳以下の人たちにはわからないでしょうから。
店内中央の円形舞台を囲うように設置された複数の小さい個室に、入場料を払った男性客がまず案内されます。お客さんは、個室内からマジックミラー越しに、舞台上で裸のショーをする女性を観て自分でヌイたり、個室に現れる手コキ嬢に追加料金を払ってシコシコしてもらうのがプレイの流れ。約10年前に消滅したライトな風俗です。
歌舞伎町には当時、『パステル&パンチ』をはじめとして、いろいろなのぞき部屋がありました。
「わかります、『パステル&パンチ』。1階がゲーセンかなんかの。ラッキーホールという手コキもありましたね」
――個室の壁に開けられた穴に挿入して、向こう側にいる女性にしごいてもらう、懐かしの風俗。荒木経惟の著書『東京ラッキーホール』(太田出版)の表紙にもなっている、あれです。
「その頃、歌舞伎町のお店に入るのがまだ怖かったのですが、のぞき部屋は行きやすかったです。」
――2004年に歌舞伎町浄化作戦が実施されて以降、今ではおとなしい街になりましたが、平成の頭頃までは怖くていかがわしい街だったんですよ。チンピラもいっぱい溢れていましたし。
「敷居が低くて、料金も安かったのがのぞき部屋の魅力でした」
――大抵のお店は入場料2000円を払えば、のぞいているだけなら他にお金はかかりませんでしたから。
「でも、オプションをつけてしまい、余計に払ってました」
――個室をヌイて回る女性に払う額は、確か3~5千円でしたかねぇ。あれってプレッシャー、感じませんでしたか? 早く発射しないと、ヌキ女を待っている隣の客に悪いとか思ったりして。
「僕はいつも最後の個室に入るようにして、女性が現れるまで自分でシゴいて待っていました」
――そもそもののぞき部屋デビューは、池袋なんですよね。文芸座(現在の新文芸座)前の。
「店先の通りにアナウンスが流れてました。『すっきり爽快のぞき部屋』って。あそこの通り沿いは怪しい店が多かったです。今は健全ですけど。先の方にはプロレスショップもありましたよね」
――『レッスル』ですね。マンションの一室にあった。
「なくなっちゃいましたね」
――あの周辺は昭和のいかがわしさとボッタクリ感が漂っていましたが、みんななくなっちゃいました。残っているのはストリップの『ミカド』劇場だけですが、最近は営業はしていないようで。
「本当に変わりました」
――池袋のその店にはよく行かれたんですか?
「デビューしてから、2~3回行っただけです。のぞき部屋に本当にハまったのはその後に行った『ピンキー』からです」
――お気に入りの女性がいたとか?
「はい、いました。店の壁に貼られている出勤スケジュールをメモして、次に行く日を決めていました」
――当時ですと、女性の出勤情報を知るにはお店に電話で聞くか、そうなりますよねぇ。1993年はパンクラス旗揚げや女子プロレスが団体対抗戦でブームだった頃ですから、遠い昔です。
ダイヤルQ2に100万円を注ぎ込んだことも
▲電話によるエロいサービスが溢れていた90年代。スケベ雑誌には広告がいっぱい
――風俗以外にはダイヤルQ2にハマった時期もあるそうですね。
「はい」
――当時の若者なら男女問わず、一度はハマったはずです。
ちなみにダイヤルQ2とはNTTが提供していた、電話番号が0990で始まる有料情報サービスのこと。ニュースやファンクラブ会員向け情報に加えて、アダルトもありました。エロ会話・音声の聴取サービス、ツーショットダイヤル番組などが楽しめたんです。ところが、バカ高い情報料金とエロに特化し過ぎたことで大問題に。平成の半ばぐらいには消えてしまいました。
「ひと月に50万円近く払ったこともありました。総額では100万ぐらいですかね」
――いいことはありましたか?
「一度もなかったです」
――何の目的で?
「あまりはっきり覚えてないのですが、女の子とお話がしたかったんじゃないかな。AVもよく観ていた頃です」
――お話しがしたかったのならば、テレクラにも。
「行ってました」
――その頃のテレクラは援助交際希望の女ばかりだったと思います。×××病院前に座っているような。
「そうですね」
――エンコーは?
「しなかったです」
――じゃあ……。
「いい思いをしたことはありませんでした」
エロ好奇心が旺盛な高田さん。お見合いパブや目新しいエロサービスを経験したこともあるといいます。期待通りにはいかなかったそうですが。フードル(風俗嬢アイドル)にハマリ始める1995年までは、ヒクソン☆高田誕生前の前座修行時期だったのかもしれませんね。
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シン上田
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